いいこと、いっぱい? (このブログは長いです)
2011.04.10.04:01
先日友達に会ったとき、
「地震があってから、いいこといっぱいない?」って言ったら、
「え~~~~~~~~~~~~~!地震があってからいいことなんて一個もないよ!」と言われて、
(あ~、今の発言はまずかったな)と反省しました。
「いいこと、いっぱい」に至る経緯を説明しますね。
もちろん、「地震があってよかった」なんて意味ではないです。
地震のあと、不安とか、恐怖とか、とにもかくにも心がマイナス引っ張られます。
どんなときでも、こんなときはとくに大切なのは「ありがとう」とか感謝の気持ちとか、大丈夫という安心感です。
まずは「命があってよかった」これにつきると思います。
でも、命があってよかったの続きの生活はけっこうシビアですよね。
目の前の雑務、明日の出勤、今まで通りいかない不自由さ、そういう自分でひとつひとつ向き合っていかなければいけない現実。
不平・不満もあるでしょう。
不平不満は習慣なので、地震があっても今まで言わない人は言わないでしょうし、地震がある前から言う人はきっと言っているし、それは自由です。
不平不満とは違う種類のマイナスでやっかいなのが「罪悪感」です。
罪悪感もマイナスの感情なので、できれば持たない方がよろしいかと。
「こんなときに」「不謹慎なのでは・・・」自分の中から湧き上がるそんな声に加えて、「そうに思われたらどうしよう」といらない思いが、二重・三重に自分の心にマイナスの矢を向けます。
慎むことは美徳のひとつでもありますが、心を傷つけるのとは別のことです。ただでさえ、今生きている人が誰も経験したことのない大きな地震で心は誰もが大変なことになっています。
これ以上心を傷つけると、あとあとずっと引きずってしまうでしょう。
そこで私が考えたのが、いいことはそのまま「よかった」と受け取ることです。そのあと、「でも・・・」とか「喜んじゃいけないような」とか「楽しんじゃいけないような」とか「誰かに・・・」とか頭によぎっても、「いい」と思ったその瞬間は「いい」を素直に感じることです。
「今」に感謝せずして、明るい方へは動いていきません。
たくさんの「おかげさまで」があっても、今この言葉を使うとまるで地震を肯定している自分がいるみたいで複雑だったのですが、いいことを素直に意識しだすと本当にいいことをいっぱい感じられるようになりました。
「命があってよかった」の次にもいいことはたくさん続きます。
「でも」かと「じゃあさ?」とか「だってさ」とか、別にそういう意見をいただくわけでもないし、マイナスのものとは極力つながらないように生きているので、いちいち書きませんが、ひとつあえてあげるとすれば、
「じゃあさ、死んじゃった人はどうなるの?」
「命があってよかった」←→「では亡くなってしまった方は・・・」
だからこそです。だからこそ、今ある自分の命に感謝。
震災で亡くなった方の命が無駄にならないように、この経験をこれからに活かしていくことが何より大切なことだと思います。
「命を大切にする」「資源を大切にする」「他の生き物の命も大切にする」
大きなことはできなくても、意識する。考える。無関心にならない。
なんでもない日常で命を意識することはあまりないですが、些細な「いいこと」はたくさんあります。それは地震があったからではなくて、地震の前から実はそうでした。でもそれを今まで意識できたかどうか。
そこの意識がちょこっと変わったから、「いいこと、いっぱい」なのでした。
では、私のいいことのいくつか。
わさび閉店が延期になりました。
喜んでくださるお客様がたくさんいらっしゃいます。
喜びながらも、複雑なお客様もいらっしゃいます。(そんな方へもこのブログをお伝えしたいのです)
お香がまだあります。まだけっこうあります。でも、売れるお香がまだあってよかったって今は思います。
地震の前までものすごく忙しく(実際にというより気持ちが)仕事してました。
「育児に専念」を理由にわさびをやめますが、「今」それができなくて、果たして仕事をやめればできるものなのだろうか、とずっと内心思っていました。(これは家の片付けについても同じです;)
地震があって、あれだけカリカリ梱包にしがみついてたのが、プツンって切れました。
停電とかで実際の仕事もままならず、お互いが非常事態ですから、発送の遅れがあっても、お客様もそれはわかってくださっているでしょうし、咎める気持ちもないでしょう。
優先順位が、迷うことなく家族へ向きました。
一番よかったこと。(そうはいっても私だって、「よかった」って書くのは抵抗があります)
集荷の時間が早くなりました。
毎日3時です。今後計画停電がなくなってどうなるかわかりませんが、地震以来、ずっと集荷が早いままなのです。
私が一番、いらいら・カリカリする時間。夕方。集荷まで。
その時間、子供を放っておく自分。見せたくない「テレビ」を見させていることを暗黙に許している自分。追い込まれないと仕事に集中できない自分。
そんないろいろが、地震後、いとも簡単に解消されて、夕方のゆとりを手に入れてしまったのです。
「ゆとり」私にもっとも必要なものです。
家族全員の健康を考えたとき、私の「ゆとり」が大事という結論に至り、「わさびをやめる決断は正解だった」と思ったのが3月はじめ。
これも、仕事をしてたって、ゆとりは気持ちひとつで選べるし、今できなければ仕事をやめたって同じこと・・・ともわかっていたのですが、実際に時間を作って形から入るのもよし、というほうを選びました。
皮肉なことに(なんて言葉は使いたくないですが)、幸い(って言葉も不適切ですが)、おかげさまで(これも抵抗がありますが)、地震の影響で毎日3時集荷で、わさびをしながら、夕方のゆとり・・・を手に入れてしまったわけです。
それに慣れたら慣れたで、些細なことで同じようにイライラ怒ってしまったり、気を抜くと発送が滞ってしまったり(ごめんなさい)、新しい日常になっていくわけですが、「閉店」とか「いつまでに」とか、そういうしがらみがなくなって、あとはなんとなくうまく流れていくような気がしてます。
よかった、とかいうより、いろいろがただありがたく、今日もお仕事させていただきます。感謝!
「地震があってから、いいこといっぱいない?」って言ったら、
「え~~~~~~~~~~~~~!地震があってからいいことなんて一個もないよ!」と言われて、
(あ~、今の発言はまずかったな)と反省しました。
「いいこと、いっぱい」に至る経緯を説明しますね。
もちろん、「地震があってよかった」なんて意味ではないです。
地震のあと、不安とか、恐怖とか、とにもかくにも心がマイナス引っ張られます。
どんなときでも、こんなときはとくに大切なのは「ありがとう」とか感謝の気持ちとか、大丈夫という安心感です。
まずは「命があってよかった」これにつきると思います。
でも、命があってよかったの続きの生活はけっこうシビアですよね。
目の前の雑務、明日の出勤、今まで通りいかない不自由さ、そういう自分でひとつひとつ向き合っていかなければいけない現実。
不平・不満もあるでしょう。
不平不満は習慣なので、地震があっても今まで言わない人は言わないでしょうし、地震がある前から言う人はきっと言っているし、それは自由です。
不平不満とは違う種類のマイナスでやっかいなのが「罪悪感」です。
罪悪感もマイナスの感情なので、できれば持たない方がよろしいかと。
「こんなときに」「不謹慎なのでは・・・」自分の中から湧き上がるそんな声に加えて、「そうに思われたらどうしよう」といらない思いが、二重・三重に自分の心にマイナスの矢を向けます。
慎むことは美徳のひとつでもありますが、心を傷つけるのとは別のことです。ただでさえ、今生きている人が誰も経験したことのない大きな地震で心は誰もが大変なことになっています。
これ以上心を傷つけると、あとあとずっと引きずってしまうでしょう。
そこで私が考えたのが、いいことはそのまま「よかった」と受け取ることです。そのあと、「でも・・・」とか「喜んじゃいけないような」とか「楽しんじゃいけないような」とか「誰かに・・・」とか頭によぎっても、「いい」と思ったその瞬間は「いい」を素直に感じることです。
「今」に感謝せずして、明るい方へは動いていきません。
たくさんの「おかげさまで」があっても、今この言葉を使うとまるで地震を肯定している自分がいるみたいで複雑だったのですが、いいことを素直に意識しだすと本当にいいことをいっぱい感じられるようになりました。
「命があってよかった」の次にもいいことはたくさん続きます。
「でも」かと「じゃあさ?」とか「だってさ」とか、別にそういう意見をいただくわけでもないし、マイナスのものとは極力つながらないように生きているので、いちいち書きませんが、ひとつあえてあげるとすれば、
「じゃあさ、死んじゃった人はどうなるの?」
「命があってよかった」←→「では亡くなってしまった方は・・・」
だからこそです。だからこそ、今ある自分の命に感謝。
震災で亡くなった方の命が無駄にならないように、この経験をこれからに活かしていくことが何より大切なことだと思います。
「命を大切にする」「資源を大切にする」「他の生き物の命も大切にする」
大きなことはできなくても、意識する。考える。無関心にならない。
なんでもない日常で命を意識することはあまりないですが、些細な「いいこと」はたくさんあります。それは地震があったからではなくて、地震の前から実はそうでした。でもそれを今まで意識できたかどうか。
そこの意識がちょこっと変わったから、「いいこと、いっぱい」なのでした。
では、私のいいことのいくつか。
わさび閉店が延期になりました。
喜んでくださるお客様がたくさんいらっしゃいます。
喜びながらも、複雑なお客様もいらっしゃいます。(そんな方へもこのブログをお伝えしたいのです)
お香がまだあります。まだけっこうあります。でも、売れるお香がまだあってよかったって今は思います。
地震の前までものすごく忙しく(実際にというより気持ちが)仕事してました。
「育児に専念」を理由にわさびをやめますが、「今」それができなくて、果たして仕事をやめればできるものなのだろうか、とずっと内心思っていました。(これは家の片付けについても同じです;)
地震があって、あれだけカリカリ梱包にしがみついてたのが、プツンって切れました。
停電とかで実際の仕事もままならず、お互いが非常事態ですから、発送の遅れがあっても、お客様もそれはわかってくださっているでしょうし、咎める気持ちもないでしょう。
優先順位が、迷うことなく家族へ向きました。
一番よかったこと。(そうはいっても私だって、「よかった」って書くのは抵抗があります)
集荷の時間が早くなりました。
毎日3時です。今後計画停電がなくなってどうなるかわかりませんが、地震以来、ずっと集荷が早いままなのです。
私が一番、いらいら・カリカリする時間。夕方。集荷まで。
その時間、子供を放っておく自分。見せたくない「テレビ」を見させていることを暗黙に許している自分。追い込まれないと仕事に集中できない自分。
そんないろいろが、地震後、いとも簡単に解消されて、夕方のゆとりを手に入れてしまったのです。
「ゆとり」私にもっとも必要なものです。
家族全員の健康を考えたとき、私の「ゆとり」が大事という結論に至り、「わさびをやめる決断は正解だった」と思ったのが3月はじめ。
これも、仕事をしてたって、ゆとりは気持ちひとつで選べるし、今できなければ仕事をやめたって同じこと・・・ともわかっていたのですが、実際に時間を作って形から入るのもよし、というほうを選びました。
皮肉なことに(なんて言葉は使いたくないですが)、幸い(って言葉も不適切ですが)、おかげさまで(これも抵抗がありますが)、地震の影響で毎日3時集荷で、わさびをしながら、夕方のゆとり・・・を手に入れてしまったわけです。
それに慣れたら慣れたで、些細なことで同じようにイライラ怒ってしまったり、気を抜くと発送が滞ってしまったり(ごめんなさい)、新しい日常になっていくわけですが、「閉店」とか「いつまでに」とか、そういうしがらみがなくなって、あとはなんとなくうまく流れていくような気がしてます。
よかった、とかいうより、いろいろがただありがたく、今日もお仕事させていただきます。感謝!
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